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反怖謙一の「ABC通信」

ABC通信は、日々の気付きや学びを基に、物事の根本や本質について忘備録的に書き綴ったものです。
ABCは、A(あたりまえのことを)、B(ぼんやりせずに)、C(ちゃんとやる)の略で、私自身の座右としているものです。

ABC通信

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2020年11月30日更新

心を蓄えた電池
     十年前の改正臓器移植法により、本人による生前の承諾が無くても、家族の同意のみで臓器移植が可能となりました。臓器移植でよく話題になるのが、移植後食べ物の好みが変化したとか、性格に変化が見られるようになったとかの不思議な現象の事実です。人間には当然ながら身体と心があります。心は目に見えず、心が身体の何処にあるのかは未だに不明です。昔の日本人は、心は肝(きも)にあると考え、肝っ玉が太いなどと表現していました。中国では下腹にあると考え、丹心や丹田と表現しました。インド辺りでは、喉にあると考え、西洋では心臓(ハート)あるいは頭にあると考えていました。
     心が身体の何処にあるのかは、未だ推察の域を出ませんが、どうも心は、身体の何処にでも行きわたっていて、いっぱいになっているらしいのです。形を有する肉体に、形の無い心が、端から端まで隅々に、まるで全く一つになったようにピッタリと重なり合っているイメージです。いわば身体が心の容れ物のようになっているのですが、それは重箱の中に入っている料理というような様子では無く、蓄電池のような様子です。形の無い電気(心)を、形有る蓄電池(身体)の中に満ち満ちていっぱい入れてある様子です。言うなれば、人間一人ひとりが、電池(移動用蓄電池)のようなものであって、電池につないだ電球(身体の表面)の表情(明るさや色)に、今の電池の様子が見て取れます。心が恐れや不安で苛まれ、電流(心)が弱まると、顔色(電球の光)は弱々しく青くなり、逆に心が喜びに満ちて電流(心)が強くなると、顔色(電球の光)は、パッと明るく輝くような金色になるといった具合です。
     電流である心の様子は、容れ物である電池の内外に直接様々な影響を及ぼします。言うなれば、身体の様子は心の様子の象徴的有り様であり、それ故、人相、面相、手相、背相、足裏相といった体表の様子を通じて、その人の心持ちとか内面の変化、さらには生き様までをも読み取ることが出来るのでしょう。このように人間は、身体と心を切り離して考えることは出来ません。しかも、心の状態がそのまま即時即応に身体の状態となって全て現れて来るのですから、心が健全な状態から遠ざかるほど、それが身体の各所に赤信号となって現れるのは当然です。しかも、その現れ方が実に見事であり、心の状態が完璧に映し出されて来ます。病気という字が、気(目に見えない生命エネルギーのようなもの)を病むと書くのも納得です。となれば、病気の根本、大本である心の暗影(日常生活の中で無理をしているところ)を取り除き、明るく朗らかで潤いのある心となれば、身体に現れている困った症状は自然に治って行くのが道理なのでしょう。
     ちなみに“電気”の正体が何なのかは未だによく分かりません(電気の性質だけが分かっていて便利に利用しているに過ぎません)。“気”の正体も不明であり、“心”の正体もまた不明となれば、この三つには、何か共通する大いなる不思議さを感じます。


2020年11月30日更新

自惚れと劣等感
     “自惚れ(うぬぼれ)”を辞書で引くと「自分で自分を優れていると思う、自負する」とあるものもあり、別に悪い事では無いようです。「どんなに自惚れの強い人でも、他人の自惚れは気に障るものだ」という言葉がありますが、そうしたところで言葉のイメージが悪いのかも知れません。本質的に自惚れとは、自分に惚れる事であり、自分を肯定し愛する事です。誰でも、自分はこういう点で人よりもいいところがあるとの自惚れた気持ちは持っているものです。周囲の人達がおめでたい人と思っても、本人が自惚れた明るい気持ちを持って幸福で積極的な人生を生きて行けるのならば、それに越した事はありません。最初は過信に近い自惚れでも、その事に熱中して行くうちにいつの間にか本物となって行くものです。自惚れの一つや二つ持っている事は、自分自身を幸せにし、社会に明るさと利益をもたらすものといえます。
     一方、これとは反対なのが劣等感です。何につけても自分を卑下しているため、いつも暗い気持ちで生活する羽目になってしまいます。当然周囲には、うっとうしく暗い印象というか雰囲気を振りまく事から、嫌悪され背を向けられ、ますます劣等感を深めて行きます。
     ところで私達は、何かに失敗したり、ふと醜い心を起こしたりして、つくづく自分が嫌になる事があります。こうした一時的自己嫌悪感は、むしろ健全な精神の働きであり、悪いところがあるのを自覚するからこそ、よくなろうと努力するように、自分を大きく成長させる原動力でもあり、本来劣等感とは区別されるべきものです。劣等感は自分を卑屈にし、落ち込ませる事しかしないものです。では劣等感とは、何処から生じて来るのでしょうか。それは“不足感”から出発しています。容貌や体型、頭脳や身体的特徴、才能や運動神経、さらには家庭環境や学歴等々、たった一つや二つの事柄に引け目を感じ、その不足感が気持ち全体に覆い被さり、全面的に自分は駄目だとの思い込みを惹起させ、自分で自分を強い不幸感へと追いやってしまう訳です。世の中いい事尽くめとは行かない事を、誰しも頭では理解しているものの、事が自分の事となると、たちまちものが見えなくなり、気持ちを暗い面に釘付けにしてしまいがちです。
     昔から「楽は苦の種、苦は楽の種」といわれ、森羅万象の全ては表裏一体、その人の受け取り方次第で、気持ちは明るくも暗くもなるものです。また、大自然の霊妙な働きによって、様々な個性を持った人間が地球上に暮らしているのであり、色々な人間が居てこそこの世のつり合いが取れ、味わいも出て来ようというものです。皆が皆、判で押したような同じ顔形、姿、才能だったならば、劣等感とは縁が切れるでしょうが、実につまらない世の中となってしまいます。他人が自分と違う事は自然でいい事なのに、他との比較や他者からの評価に捕らわれ、自分自身に低い評価をして救い難い劣等感病の患者になっているなど愚の骨頂です。人間は、自惚れがある位が丁度いいのかも知れませんね。
     

 反怖 謙一(たんぷ・けんいち)

  三井住友銀行 人事部研修所 顧問
  (元・陸上自衛隊 陸将 第1師団長)



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